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広報誌「法テラス」インタビュー

広報誌「法テラス」Vol.3 秋号  インタービュー

今年3月、55 年の歴史に幕を下ろした(財)法律扶助協会。その最後の会長として、民事法律扶助事業を法テラスに引き継ぐという大役を無事終えられた小堀樹さんにご登場いただきました。
小堀さんはまた、日本弁護士連合会の会長として、法テラス設立のきっかけにもなった今次司法制度改革にも深く関与されました。
弁護士になられて50 年近く、常に市民に寄り添い、市民のための司法制度の実現に尽力されてきた思いを伺います。

会長に就任された2003 年は、政府がいわゆる「司法ネット」構想を発表したときでした。以来4年間、総合法律支援法の成立を受け、法テラスの設立に向けた協議や民事法律扶助事業の引継ぎなど、いろいろご苦労がおありだったことと思います。
小堀
会長に就任したときに感じたのは、法律扶助協会(以下「協会」)は組織にしても事業規模にしても、世の中の人が一般に思っている以上に大きく、この改革の時代に果たす役割は、大きくなることはあっても小さくなることはないという確信でした。
何よりも協会には、50年余の歴史を支えてこられた弁護士をはじめとする関係者と、高いモチベーションを持った職員たちがいます。
それらの人々の志や情熱を、なんとしても新しい組織につなげていく使命が私に課せられたのだと感じていました。
そのため総合法律支援法が成立したとき、協会としてはまず、これを単に受け入れるだけでなく積極的に参画していくということを、役職員一致のもとに決めました。
協会が培ってきた経験やノウハウを新たな組織で生かしていくことはもとより、組織や業務のあり方についても積極的に提案するという思いでやってきたつもりです。
民事法律扶助を法テラスに引き継いだ今、法テラスに望まれることはありますか。
小堀
官から民へという世の風潮のなかで、国は予算を付け、法テラスという新たな法人を立ち上げてまで、国民の司法へのアクセス拡充を目指したわけです。そして、法律扶助をその中心的な業務の一つと位置づけた、その意味を忘れないでいただきたいと思います。
また、今はさかんに「効率化」ということが言われます。事業の効率化は誰も反対する人はいませんが、単純なコストダウンだけを追及すれば、往々にして事業の縮小化につながってしまう。組織の活力を大切にして、皆の協力で効率的な業務運営に努め、さらに発展させていただくことを期待しています。
また、協会の歴史は、財政難との戦いの歴史でもありました。その中で協会は、法律扶助の理念を追求するため、社会のニーズに応えて、民事扶助の枠にとどまらない多様な事業を自主的に展開してきました。法テラスは予算面・組織面が整備されたわけですから、真に国民の役に立つ創造的な事業展開をぜひお願いしたいと思います。
法テラスが船出したことを含め、司法制度改革が着々と実現の段階に入っていますが、どのようにご覧になっていますか。
小堀
今改めて社会全体を見渡してみて、法テラスの果たす役割はきわめて大きいことを感じます。例えば弁護士の偏在問題に関していえば、ひとつにはコールセンターなどで情報提供を行って入口を広げること、もうひとつはスタッフ弁護士制度をいかに成功させるかだと思います。そのことは弁護士のあり方自体に影響を与えるでしょうし、弁護士の質を維持していくためにどのような養成制度を用意すべきかという問題も突きつけられるでしょう。法曹人口を増やせばある程度解決はするでしょうが、制度的に偏在を解消した上で、弁護士のアイデンティティや社会的使命を維持していくという課題にも積極的に向き合っていかなければなりません。
ただ、法テラスのスタッフ弁護士になろうとする若い弁護士たちは強い意欲を持っているときいて、頼もしく思っています。
抵抗しながらも父と同じ道へ
小堀さんは、弁護士としてまもなく50 年になられます。弁護士を志されたきっかけはなんですか。
小堀
「市井の弁護士」だった父の存在が、今になって思えば影響していたと思います。私の父は、町の人たちの相談相手になることを志して弁護士になった人で、家にはお客さんの出入りが多く、夜遅くまで打合せをしたりしている姿を見て育ちました。
そんな父を子供の頃から尊敬していました。父も私を後継者にしたいという思いを持っていたようで、弁護士というのはいい仕事だよ、という話を折に触れてする。
しかし、そんな父への抵抗もあって、学生時代は司法試験の勉強など全くしませんでした。
さて卒業が間近になって、いろいろな職業を考えてみても、勤め人の生活というのがどうしても想像できないし、自分に合っているとは思えなかった。それで、司法試験を受けることにしたのです。その頃から、母に「けんかしているみたいね」と言われるほど、父と激しい法律論を戦わせることも多くなりました。弁護士というのは、慰謝料の問題のように、ときに人間の心情を数字で測らなければならないような場面も出てきます。制度としての司法と、人間の心情との落差に違和感を覚え、「弁護士なんて職業に就くつもりはありません」などと言って父を困らせたことも今となっては楽しい思い出です。
思い出多い、スモンとの10年
弁護士としての仕事の中で、思い出に残る事件がありましたらお教えください。
小堀
30 代の半ば、司法研修所の仕事をしていたときに一緒だった先輩弁護士に頼まれて加わったスモン集団訴訟には、和解がまとまるまでの約10 年にわたってかかわり、忘れがたい思い出となっています。
スモンは、1960年代に整腸剤・殺菌剤として広く使われていたキノホルムの副作用によって発生した薬害事件です。神経細胞が破壊され、患者は激しい痛みやしびれ、麻痺など運動機能障害で苦しんだ末、余病を併発するなどして多くの人が早く亡くなってしまう。製薬会社と、十分な安全性の検証をしないまま製造、販売を認可した国を相手に損害賠償請求訴訟が提起されました。
スモン訴訟では、2,300 名余りの被害者が法律扶助を利用されました。
小堀
スモンは、被害者の数が1万人を超え、その中には裁判の費用を用意できない人も大勢いましたので、協会にはたいへん助けられました。
患者本人の陳述書を作るために、患者が多発した岡山県の病院に出向き、話を聞く機会がありました。高齢の患者が多い中で、その女性は比較的若い人でしたが、深刻な病状にもかかわらず、とにかく明るい。お嫁に行って、スモンになって、離婚させられ、子供とも離れ離れになっているとのこと。「こんな辛い思いをしているのに、どうしてそんなに明るくいられるのですか」と思わず聞いてしまいました。すると、「私だけが何故こんな不幸を、と考えて泣きましたが、一生治らないのだから、痛いのも辛いのも私の友達。そういうものを背負って生まれてきたと考えて生きていくことを決心したのです」
と言うのです。別れたご主人がたまに子供を連れて見舞いに来てくれることだけを楽しみに生きている。そんな話をニコニコしながらするのです。
「かわいそうに」とも「こんなに偉い人が世の中にいるのか」というのとも違う、なんともいえない気持ちになりました。私自身、人間を見る目が変わるほどの経験でした。
スモンは、訴訟そのものよりも、患者ひとりひとりの人生に寄り添い、共感し、いい意味での苦労をたくさんできたことが思い出として残っています。
これからは一弁護士として
大役を無事果たされ、これからどのようにお過ごしになられますか。
小堀
協会の清算手続を見届けて、私も完全に役割を終えることになります。4年半前、扶助の仕事をしないかと誘われたときは、私は適任ではないと躊躇しました。
しかし、振り返ってみると、弁護士会の仕事をいろいろさせていただいていよいよ引退というときに、しかも扶助制度がこれから発展していこうという改革の時期に、若干のお手伝いができたことは幸せだったと感じています。
これからは一弁護士として、仕事に専念したいと思っています。弁護士というのは人任せにしにくい職業で、自分で手をかけないと心配でしょうがない。だからこれからも、依頼者と向き合いながら仕事を続けていきたいと思います。

小堀 樹さん

1931年
東京生まれ。
東京大学法学部卒業。
1960年
弁護士登録。
1965年
司法研修所所付。
1975年
司法研修所教官。
1991年
東京弁護士会会長、
1998・99年
日本弁護士連合会会長。
2003年
(財)法律扶助協会会長。
ゲスト:小堀 樹さん

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