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広報誌「法テラス」インタビュー

広報誌「法テラス」Vol.2 夏号  インタービュー

今年、デビュー40周年を迎えた沢田研二さん。グループサウンズ全盛期に「ザ・タイガース」のボーカルとして活躍。解散後はソロ歌手として数々の大ヒットを飛ばして一世を風靡したことは、40代以上の方ならだれでも、鮮明に記憶に残っていることと思います。
稀代のスーパースターでありながら、自然体で歳を重ね、来年には還暦を迎える「ジュリー」に、公演中の舞台の合間を縫ってお話を伺いました。

沢田研二さんのインタビュー風景
いつも後手後手の人生
歌手としてはもちろん、俳優、バラエティまで幅広く活躍されていますが、その才能の原点はどこにあるのでしょうか。
沢田
子どもの頃はスポーツばかりやっていて、「夢はプロ野球選手になること」と言っていましたが、本当は歌手とか俳優とかに憧れていました。でも、実力が物を言う野球とは違う、別の何かが必要だと子供心にも感じていましたし、僕の父親も俳優を目指して映画監督の書生をしていて結局夢をあきらめた人でしたから、自分もどうせなれっこない、と思い込んでいました。
そんな人間が野球に挫折し、学校も面白くなくなり、高校1年のとき友達に誘われるまま、当時は不良の溜まり場といわれていた京都のダンス喫茶に出入りするようになりました。「1曲覚えてきたら歌わしたる」と言われて、一生懸命覚えて歌ったときの快感が忘れられず、将来への不安は感じながらも、バンマス(バンドマスター)の付き人をやりながら歌っていました。そんな時、のちにタイガースになる4人がボーカルを探していて、僕に声がかかったのです。ボーカルとして、しかも同年代の人間に請われるのがうれしくて、「どうせ売れやしないよ」というバンマスを何度も説得して、17歳のときメンバーに加わりました。
僕はもともと引っ込み思案で、自分から何かをするという質たちじゃないんです。いつも後手後手。今までの人生で、先手必勝ということは一度もありません。みんなに引きずられて京都から大阪へ出て行ったら人気が出て、他のメンバーが「東京へ行く!日本一になる!」と言っているときに、僕だけは「大阪まで来られただけで御の字じゃないか」と思っていました。それが上京してザ・タイガースとしてデビューしたら、メンバーの中で一番の人気者になってしまった。
ザ・タイガースはたった4年間でしたが、チョコレートの会社の宣伝で、自分の顔が街角街角に貼り出されたり、今では当たり前になっていますが後楽園球場でコンサートをやったり。実際は七転八倒してきた結果ではあるけれど、誰もができることではない、貴重な経験をさせてもらったと思います。
化粧をする「決断」が男らしさ
ザ・タイガース解散後、他のメンバーはそれぞれの道を見つけて進んでいきましたが、僕は相変わらずバンドでの活動にこだわりつつ、徐々にソロで歌うようになっていきました。
そのうち、ザ・ワイルドワンズの加瀬邦彦さんが、沢田研二個人のプロデューサーとして衣装やすべてを考えてくれるようになったんです。化粧をしたりピアスを付けたりしたことには賛否両論ありましたが、僕はもともと男らしくない人間ですし、男だって女々しくていいじゃないかという考えです。逆に僕の中では、化粧をする、と決断することが男らしいと思っていました。
阿久悠さんや安井かずみさんなど、当時のヒットメーカーの作る詞は、誰が歌ってもきっと当たったと思います。だから僕は曲に別の価値をつけたかった。常に劣等感が付きまとっている人間だから、がんばっちゃうんですよね。僕も負けじとアイデアを出して、それが掛け算になって、何倍もの力になっていた。それが次第に単なる足し算になって、いずれは引き算になり、割り算になる。そう感じたときに、もうやめよう、と思いました。
ファンの人や業界の中には、「いつまでも派手なジュリーでいてほしい」と言う人もいますが、パラシュートを背負ったりするパフォーマンスは、売れてるからこそ受けることであって、売れなくなってからもやり続けたら、痛々しく、みじめったらしく映ると思うんです。
そうしていたときに「芝居をやらないか」と誘ってくれる人がいて、舞台に立つようになりました。一度に数百万人が見るテレビと違い、芝居というのは、ひとつの舞台でどんなに多くてもせいぜい観客は1万人程度です。でも芝居は、沢田研二を嫌いだったら、わざわざ電車に乗ってお金を払ってまで観には来ないだろうと。やってみて、観に来てくれる人がいる間はやってみようと思ったのです。
昔よりもずいぶん縮小はしましたが、幸いなことにイメージだけはいまだに「あの沢田研二」というのがあるので助かっています(笑)。
根っこは「沢田さんちの次男坊」
デビュー以来、ずっと第一線で活躍されていますが、心がけていらっしゃることはありますか。
沢田
僕らの世界は上昇志向がないとだめだと言われますが、ある程度のところまで行ったら戻ってくる、そういう冷静さを持つことが必要だと思います。僕らの世界でいえば、レコード大賞までとったときに、それより上を目指そうとしたら、あとは外国に行くしかない。かといって外国に行って本当に通用するのか、立ち止まって考えられるかどうかということです。僕自身、何度か天狗になったこともありましたが、もとを正せば「電車通りから3軒目の沢田さんちの次男坊」というのが自分の根っこなんだということをふと思い出すんですね。築いたものがなくなったって別に困りゃしないんですから。何かにしがみつくのではなくて、どこかであきらめる。そういうほうが、他人から見ても気持ちいいと思うし、その判断ができないと、どこかで無理が生じます。
それから、お金に頓着しないこと。これはなかなかできないですけれど、とりあえずは生活に困らない状態になって、それもいろんな人の力を借りて。「最終的にがんばったのは俺だ」と思いたいですけど(笑)、一人の力ではここまで来られなかったと正直思います。
今は、自分が「これが好き」と思うものが当たってくれればいいと思うし、そのためにはやめてしまわないで、その時その時の自分に合ったスケールで続けていきたいと思っています。
これからも楽しみがいっぱい
沢田さんは、いわゆる「団塊の世代」でもいらっしゃいます。今後取り組まれたいことなどについてお話しいただけますか。
沢田
歌うことは、そんなに長くは続けられないと思っています。年をとればどうしても声は枯れてくるし、耳は遠くなる。耳が悪くなると音程がとれませんから、歌うことはいつか限界がくると覚悟しています。芝居はもう少し長くできるかな。僕らの職業は定年がないので老後も仕事ですが、これからは父親役、もう少ししたらおじいちゃん役もできるかなと、楽しみはいっぱいあります。若いときにやった舞台で、今度は年配のほうの役で誘ってくれるんじゃないかと期待しています(笑)。
そのためには何よりも健康が一番ですから、酷使しないように、かといって節制しすぎてもつまらないし、ほどほどにお酒を飲み、おいしいものを食べ、痩せることばかりに気をとられないで過ごせたらいいですね。
50になった前後に、何度かの挫折はありましたがタバコをやめました。60過ぎたら仕事で車を運転するのはやめたいですね。運転手を雇えるくらいにはなっていたい(笑)。ひとつずつやめていくことがあると、続けていけることもあるかなと思っています。

沢田 研二(さわだ・けんじ)さん

1948年
鳥取県生まれ。
1967年
ザ・タイガースのリードボーカルとしてデビュー。
1971年
ソロデビュー。「勝手にしやがれ」、「時の過ぎゆくままに」、「危険なふたり」、「ダーリング」、「カサブランカ・ダンディ」、「サムライ」、「TOKIO」などヒット曲多数。
映画、舞台、ドラマにも多数出演。
2006年4月
放送されたNHKドラマ「マチベン」では、金にはうるさいがクールでマイペースな弁護士役を演じた。
ゲスト:沢田 研二(さわだ・けんじ)さん

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