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法テラス座談会
なぜ今セーフティネットが必要なのか 社会コスト論か人間が持つ本来の感情か
- 草野
- ありがとうございました。谷口さんにうかがいたいんですが、今のお話を聞いていると、やはり制度があったとしても人がそこにどうやってリンクするか、そのリンクの仕方に解決できるかどうかの鍵がある気がします。でも多くの人は、なぜそこまでやる必要があるのかという疑問を持つのではないかと思いますが。
- 谷口
- おそらくそうしたイメージは、人権意識に基づいて困った人たちを救済する、一種の慈善事業のような感覚から生まれるのかもしれません。しかし、実際にはそうした人たちを支援することは、社会全体にとって、有形無形の大きな利益を生んでいるような気がします。こんな事件がありました。私が国選刑事弁護事件で担当した窃盗事件です。その人は、生活に困ってわずか数百円のものを万引きして逮捕されました。それまでも同じようなことで刑務所に出たり入ったりを繰り返していたので、常習累犯窃盗という重い罪で起訴されました。数百円の万引きに対して、たくさんの警察官が捜査をし、大量の捜査資料を作成し、検察官や裁判官が関与し、国選弁護人が付されます。この人は結果として3年刑務所に行くことになりました。わずか数百円の窃盗に対して、刑事手続と服役にかかる費用で相当額の国費が投入されることにもなりかねません。彼らの犯罪の原因の多くはセーフティネットからこぼれ落ち、孤立化したことによるものです。この人も、生活保護申請をしようとしたものの、あまり文字が書けず、窓口職員の言っていることもよくわからず、申請書を書けなかったためにあきらめていました。短期間でも、誰か専門家が彼に寄り添い、社会とのつながりを作ることの手伝いをしていれば犯罪は防げたであろうと感じることは少なくありません。これに要するコストは、先に述べた費用よりはるかに少ないものです。その結果、彼が納税者になれれば、どれほどの差が生じるだろうかと感じます。
- 草野
- 法テラスで仕事をしていると思うのは、「それ、私には関係ない」と言う人たちをいかに、考えてもらうところに引き込んで、今目の前にあるこの問題と自分の生活、未来がつながっているんだということを実感してもらうことが重要かということ。一部の人が勝手にやっていればいいというのでは、制度としてセーフティネットは作っていけないのではないかと思うんです。そこで、なぜこれが必要なのか、何をもって人を引き込んでいくのか。どうお考えになりますか?
- 湯浅
- 今一番有効なのは、半分残念ながらということですが、やはり社会的コストということ。今、谷口さんがおっしゃったことが、私の言う貧困のコスト。手前で防げたものを防げなかったことによって、どれだけ手間と時間とお金がかかるかを目に見えるようにする。自殺の問題も同じですが、いろいろな試算があって、自殺で年間3万人の方が亡くなり続けていったことで、この11年間に亡くなった人の経済的コストが22兆円。また、就職氷河期世代をこのままずっと放っておくと、将来77万人が生活保護を必要とする、そういう話ですね。本来、人権の話はお金ではないはずなので、こういう話をすることに抵抗を持つ人もいますが、残念ながらその話をしないとうなずいてくれない人たちがたくさんいる。そのことをある程度、突き出していく必要があります。
- 香山
残念ながら、という感覚が持てるかどうかは、個人の価値観ですが、なぜ残念なのかということをどう説明するかが本当に難しい。私も最近その問題をずっと考えています。西洋的な、キリスト教的な発想があれば「神様は人々を平等に創られた」、「聖書に弱いものを助けなさいと書いてあるから」と、超越的な存在を認めて言うのが一番わかりやすいと思うんです。それがない日本の社会でどうやって説得力ある形で決めるのか。コスト論だと、コストがかかるんだったら人を助けなくてもいいとなってしまう。どう考えても助けたほうが費用が高いケースであれば助けなくてもいいのか。これが行き過ぎると、そういう人は最初からいなければいいというような、優性学的な議論になってしまう。コスト論は危険だと思うんです。
- 谷口
- コスト論とははなれて、もう一つとても大切なことがあると思います。先ほどの服役した人は、刑事裁判の中で質問を受けている途中、「生きてきて、どういうときに幸せを感じていたか」という問いに、声を詰まらせました。そして「仕事をしているときでした。自分は外装工だったのですが、お客さんに『ああきれいにできたね』と言ってもらったときが一番幸せを感じました」と泣きながら答えました。人間は誰でも人のために何かをして感謝されたいという思いを持っているものです。犯罪など人に憎まれることをするのではなく、誰かの役に立ちたいと思っているのです。誰かが誰かのために何かをする、この循環があちこちでできれば社会はとても活性化し、住みやすくなるはずです。彼を支援するというのは、社会と彼を、彼と他人を再びつなぐということであり、それは彼のためだけではない、社会全体の「幸福」につながると思うのです。
- 山田
私は楽観的で、人間には不幸な人が身近にいると見過ごせないという感情が備わっていると思うんです。不幸な人を見ながら生活はできない。大衆誌がするように上にいる人が叩かれるのは快感なんですけど、故なく不幸になっている人、自分に責任がない人が不幸になっていくのを見ていられないんだというところに人間の本質があると思います。だけど最大の問題は、今の社会は人の不幸を見なくてすむようになっているでしょう。昔は地域で生活するしかなければ、まわりの人の生活状況が見えて、そこに不幸な人がいれば、何とかしよう、という気持ちになれたのですが、今は見なくてすむ。例えばファストフード店に行ってハンバーガーを食べても、そのハンバーガーを売っている人が背景にどんな生活を抱えているかは見なくてすんでしまうんです。社会学では「排除型社会」といいますが、見なくてすむシステムができあがってしまっている。インナーシティの話にも出てきましたけども、都会に住んでいる人でも、間近に見れば助けたくなる。そういう意味では楽観論です。日本の社会というのは内と外の規範が強くて、ある調査では、困っていた方は自己責任だというのが世界で一番、アメリカよりも高い。では誰の責任かというと、日本人の意識では、家族なんです。内に対しては非常にやさしいけども、内じゃない、自分と関係のない人とみなしてしまえばもう関係ないというのが強いわけですから。以前、日本人の倫理観は高いのか低いのかという問いがありました。借金を返すために犯罪を行うというのは倫理観が高いんだろうか低いんだろうか。借金を返さなければいけないからという気持ちが強いというのは、倫理観が高いように見えるけれども犯罪を犯すわけで、関係ない被害者が困ろうがかまわない。自分の身近な人には借金を返さないといけないという、倫理観の内と外の二重性が強い。なんとか打ち破れる方法はないのかなと思っていますが、それには私も悲観的ですね。