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私にとっての刑事弁護 ー被害者の最大・最高の理解者であることー

更新日:2020年9月29日

法テラス埼玉法律事務所 村木 一郎 弁護士(42期)

はじめに

村木先生ご本人


法テラス埼玉法律事務所の村木一郎弁護士にインタビューしました!

司法修習42期の村木弁護士は、法テラスの業務開始と同時にスタッフ弁護士になりました。以来、刑事弁護を専門とし、間もなく60件目の裁判員裁判の公判を迎えるそうです。

そんな村木弁護士に、スタッフ弁護士になった経緯や、刑事弁護のやりがい等を聞きました。途中、聞き手が趣味に走っていますが、そこは弁護士・司法修習生向けのご愛嬌ということで。

最後の質問に対し、「こんな人にスタッフ弁護士になって欲しい」と話してくださっている内容は胸にしみます。お楽しみ下さい!(インタビュアー 法テラス本部事務局長付(取材当時)・弁護士 冨田さとこ)
 

Q 法テラス埼玉開所の頃の話を聞かせてください。

当時、埼玉には法テラスを「法務省の手先」「弁護士自治の敵」と考え、反対する弁護士が多くいました。
一方で、国選弁護の手続は、法テラスが裁判所から引き継ぐことになり、被疑者国選も始まることが決まっていた。法テラスに反対して国選契約を拒否する弁護士が数多く出たら、埼玉の国選刑事弁護は回らなくなります。
そのような状況の中で、私は開業と同時に、スタッフ弁護士になることに決めました。「村木は弁護士としての魂を権力に売った」と、批判されていました。
よく覚えているのは開所披露パーティのことです。
私は刑事弁護人として、検察庁と激しく対立することがしばしばでした。
「本庄連続保険金殺人事件」の弁護人を務めていたところ、相被告人の弁護人を務める高野隆先生とともに、「接見禁止決定を潜脱する違法な弁護活動」だとして、さいたま地検から懲戒請求されたことすらあります(後に懲戒しないとの決定)。
法テラス埼玉の開所式には、弁護士会や裁判所だけでなく、地検からも検事正以下来賓が来ていました。私も挨拶をすることになり、壇上で話しました。
「『村木は魂を権力に売った』と言われているが、私はいま目の前にいる次席検事から、刑事弁護人として「違法な弁護活動をした」として、懲戒請求されたことがあります。これでも弁護士としての魂を売ったと言えるのでしょうか。」と静かに語りました。場内は爆笑(笑)。
 

Q なぜ、そのような批判の中でスタッフ弁護士になったのですか?

ずっと刑事専門の弁護士になりたいと思っていました。
スタッフ弁護士は、自分の生活を守りながら刑事専門弁護士になれる道だったのです。
それ以前は、埼玉の一般的な法律事務所でパートナー弁護士をしていました。
刑事弁護をやりたくて、国選事件をかなり担当しました。当時年間60件と言ったら、なかなかいないと思います。
ただ、事務職員を雇っている経営者としての責任もあります。家族もいます。
刑事だけでは、自分は食べていけるかもしれないが、職員や家族の生活を支えることはできません。民事事件も相当やって、売上げもかなりあったんですよ。
刑事弁護をやりたくて弁護士になったのに、ままならない…。そう思っていた時に、小泉内閣の司法ネット構想からの司法改革、法テラスの設立、そして常勤弁護士構想というのが出てきたのです。
これなら、収入は減るかもしれないけど、家族は養えるし、事務所維持という責任からは解放されて刑事弁護に専念できると思いました。
先ほどお話ししたように、埼玉の国選刑事弁護が回らなくなるかもしれないという危機感も、もちろん念頭にありました。
埼玉の刑事弁護が回らないなら、埼玉から刑事専門弁護士を出せばいい。
それなら自分がやろう。そう考え「刑事弁護だけやらせてくれるなら、スタッフ弁護士になる」と言ったのです。
2006年10月に法テラス設立と同時にスタッフ弁護士となり、それ以来、担当した刑事被告人が当事者とされた民事事件など、ごくわずかな例外を除いて刑事弁護しかしていません。
 

Q 村木先生にとって、刑事弁護の魅力とはなんでしょうか。

私にとっては、人生の中で一番辛い時期を過ごしている人に寄り添い、その人が普通の生活を取り戻すのを見ることができた時のほっとした感じが大きな魅力です。
特に若い人は、普通の人生に戻っていくことができます。
たとえば、私が付添人を務めた少年で、複雑な家庭事情の中で事件を犯し、4年間少年院で過ごした少年がいます。
少年院の中で高卒認定試験をパスし、出所後に大学に通いました。
折々に私の家を訪れては、私の家族も一緒に食卓を囲んでいたのですが、やがて結婚し、最近、子どもが生まれたと見せにきてくれました。
その赤ちゃんを抱き締めた時、私は、刑事弁護士としてもう十分だなという思いに駆られましたね。
無罪や執行猶予獲得のために争うことも、やりがいはあります。
でも、依頼者のために一所懸命に活動した結果、望んでいた結果が出なくても、「そこまでやってくれたら十分です」と言われることがある。
私は、その瞬間が好きです。

 

Q そもそもの話になってしまいますが、なぜ刑事弁護を志したのですか?

高校生の時に、狭山事件の弁護人の話を聞いたのがきっかけです。
部落差別の絡む冤罪事件である狭山事件の弁護団が、私の通っていた都立小石川高校で開催された勉強会に来てくれたのです。
そこに参加すると、難しく、お金にもなるとも思えない事件のことを生き生きと語る弁護士たちがいました。
明らかに費用は持ち出しで、好きでなければできない仕事です。その姿を見て「刑事弁護士になってみようか」そう思ったのが始まりです。

 

Q 1990年に弁護士登録をされてから、刑事弁護にずっと取り組んでこられた村木先生から見て、刑事弁護周辺の変化、特に裁判員裁判が始まる前と後の変化をどのように感じていますか?

裁判員裁判が始まって、「やっと、法廷の中でのやりとりで決着する、普通の裁判をやっている」という実感があります。
裁判官も、普通のコミュニケーションをとれる人が配置されるようになった。
刑事弁護は全体として標準的なレベルが上がった。
昔は裁判官より検察官が威張っていたし、国選弁護人は法廷で初めて被告人に会い、検察官は証拠をほとんど開示しないということが、まかり通っていました。
公判前整理手続のない時代の死刑事件などを振り返ると、弁護側の目に触れていなかった証拠の多さにぞっとします。

 

Q 個人的な興味に駆られて我慢ができません。先生の出会った刑事弁護士の話を聞かせてください。

私が東京で弁護士登録をした当時、刑事弁護で名前を知られている弁護士は、本当に限られていました。
東京なら石田省三郎先生と丸山輝久先生、大阪なら下村忠利先生などです。当時20年目くらいのベテランの方々です。
私は42期ですが、司法修習生の時に、まだ若手だった35期の神山啓史弁護士と知り合いました。
神山先生とは、それ以来「何かあれば聞きに行く」という関係ですし、事件以外の人生の様々な局面でもアドバイスをもらってきました。
弁護士になって4年目に入ったとき、埼玉に登録を移しました。
埼玉には、34期の高野隆弁護士がいました。
本庄事件では相被告人をそれぞれ弁護していましたが、一緒に事件を担当させてもらったこともあります。
当時、刑事弁護は証拠の開示も不十分、保釈もなかなか通らないという暗黒の時代でした。
高野・神山両先生は、刑事裁判をよくするために、刑事訴訟法に沿った裁判を実現するために、果敢に根気強く闘っていた。この2人がいなければ、今の刑事弁護シーンは、全く違うものになっていたと思います。
高野先生に、「最高裁への特別抗告は、1000件やれば1件くらい良いことがある」と言われたことがあります。
当時、第一回公判前の保釈請求は、検察官の意見書を閲覧できませんでした。
不思議なことに、電話をすると口頭で教えてくれるのに、弁護人が自分で読むのはダメだと言うのです。
高野先生は、保釈請求却下に対する特別抗告の中で、この点を刑事訴訟法に違反していると主張しました。
最高裁は、特別抗告自体は棄却したものの、理由の中で、閲覧させない処分は「不相当」と書いていました。
それは最高裁から全国の裁判所に通知されたようです。次に行ったら「どうぞどうぞ」と裁判官から検察官意見書を見せられたのが、印象に残っています。
神山先生は常々、「どんなにダメな裁判官でも訴訟指揮には従うこと。訴訟指揮に従わないなら、それは弁護士ではない」と言います。特別抗告もそうですが、限られたツールの中で、法律のプロとして、法律の枠の中で、制度改善のために闘うこと。
いくら改善されたからと言って、まだまだ改善すべき点の多い刑事裁判なので、この先もそういった気概を持って刑事訴訟法を駆使して闘う弁護士は必要です。

 

Q カッコいいですね…。すみません。話を戻します。どんな人にスタッフ弁護士になって欲しいと思いますか?

健全な想像力を持ち、依頼者のため、地域のために一生懸命働く人にきて欲しいと思います。
弁護士になってすぐ、神山先生に言われた言葉で30年間心の中に置き続けているものがあります。
「弁護人は、被害者にとって最高で最大の理解者であるべきだ。自分の守るべき人、すなわち被告人を守るためには、被害者の最大の理解者になるべきだ」というものです。
神山先生は「そんなこと言ったかな」なんてとぼけますが、実際、オウム真理教の事件を担当していた時、一人一人の被害者が何日の何時にどこで亡くなって、その時何歳だったか等、被害に遭われた方々に関する情報は頭に叩き込むなど、言葉通り実践されていました。
相手の置かれた状況に対する健全な想像力は、弁護士にとって最も重要な資質であると思います。離婚であれ、労働問題であれ、殺人であれ、そこに置かれた人の状況や思いを謙虚に想像し、相手を思いやることは、人の人生を扱う弁護士の責務です。
また、スタッフ弁護士は、民事事件でも、お金がなく、時には障害や加齢、複雑な家庭背景など、特に難しい事件を扱うことになります。そういった事件を前にしても、相手の立場を考えて、依頼者のために、ひいては地域のために働く人に来て欲しいですね。

 

村木一郎弁護士の略歴

東京都出身
1990年 弁護士登録(東京)
1993年 埼玉へ登録替え
2006年 法テラス埼玉法律事務所
2012年 北千住パブリック法律事務所(都市型公設事務所)
2015年 法テラス埼玉法律事務所へカムバック!現在に至る。

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